日本語教育能力試験を受験

山東省烟台市にあった共産党学校(党校)で日本語教師をしていたが、ビザがどうしても延長できず、やむを得ず3か月間で党校とお別れし帰国した。

中国の大学の日本語学科などで日本語教師をする場合、特に資格は必要なかった。

しかし、その後も長く中国で日本語教師をするのなら、責任ある教師として、きちんと勉強し、正規の資格を持っていたほうがいいのではと思い、半年後の10月に行われる日本語教育能力試験を目指し勉強することにした。

 

アルクの通信講座を申し込み、勉強を開始した。

日本語教育能力試験の合格率は、近年は30%近くのようだが、私が受験した当時は17%前後とかなり低かった。

 

当時はまだ頚腕の痛みをこらえながらの勉強であった。

痛みがひどいときは、テキストを逆さにして読んでみたらどうかと思って本当にそうやってみたり、悪戦苦闘した。

 

試験勉強のかたわら中国語を教えるアルバイトをした。

一つは、YMCA内の中国語教室の先生。

YMCAの須郷さんにうまくまるめ込まれて、自分で大丈夫かなと思いながら引き受けたのだが、不安が的中した。

3、4回授業を行った後、声がかからなくなった。

 

二つ目は、中国語の家庭教師。

こちらのほうは、生徒さんが私を気に入ってくれたらしく、当初はピンインの読み方など発音だけを教える予定だったが、希望されて発音終了後も引き続き教えた。

 

勉強を進めているにつれ、アルクのテキストだけでは、試験範囲をすべてカバーしきれていないことがわかり、時々近くの書店で立ち読み勉強した。

当時は、まだ30歳代前半だったので、一度勉強したら相当程度頭に残った。

肝心のヒアリングの試験対策は、単語カードを作って、毎日繰り返して念入りに勉強した。

 

10月の試験は、名古屋市にある名城大学で行われた。

当日行くと、たくさんの教室が試験会場になっていて、受験生の多さに驚いた。

 

試験の感想は、やはり難しかった。

今でも覚えている唯一の設問は、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を問うたもの。

当時は、その本のことをまだ知らなくて、悩んだ末、誤答した。

 

実際に日本語教師になってからは使うことがなさそうな専門的な設問が多かった。

当時の日本語教育能力試験は、年々専門性が高まり、難易度が上がっていた。

試験の結果に自信がなく、合否発表がある日まで、受験生のツイートをインターネットでよく見ていた。

 

頚腕の痛みがなかったならば、半年という長い準備時間で合格は難しくなかったと思う。

毎日痛みと闘いながら勉強しなければならず大変だった。

 

合否発表は、試験から2か月後にあった。

発表当日、自宅で待っていたら来訪者のチャイムが鳴ったので、ひょっとしたら合格かな、とドキドキした。

もし不合格なら、郵便局の配達員は、チャイムを押さずに発表通知書を他の郵便物と一緒に郵便ポストに入れ、静かに立ち去ったにちがいない。

 

結果は、合格。

思わずガッツポーズをした。

不合格だったらもう1年間勉強するつもりだったので、1年間の時間を無駄にせずに済んだ気分だった。