1978年10月22日は日曜日で、私は、家族と一緒に川の上流の方にある小さなお店へ行き川魚を食べた。
その店にあった1台のテレビが、ちょうど日本シリーズ、ヤクルト対阪急の最終戦を放送していた。
当時の私は小学2年生で、すでに野球への関心が強く、地上波で巨人戦をよく見ていた。
野球のルールもテレビ中継を見ながら知らないうちに短期間で覚えた。
その日のヤクルトは、エース松岡弘が投げていた。
コントロールが定まらず、監督だったかピッチングコーチだったかがマウンドに行って何か話をした途端にコントロールがよくなった。
私は、不思議なことだと思いながら中継を見ていた。
その後、ヤクルトの大杉選手のホームランを巡り、阪急の上田監督が猛抗議し試合が中断した。
中断が長時間に及び、場内が騒然としていたことなど、今でもおぼろげながら覚えている。
最後はヤクルトが勝利し、この年の日本一になった。
その後今日まで長く野球を見てきて思うことがいくつかある。
そのうちの一つは、監督によってチームが容易に浮上したり、沈下したりするということ。
広岡達朗は、当時弱小チームだったヤクルトの監督に就任して、2年目には球団を2位に押し上げ、3年目には日本一に導いた。
ヤクルト退団後、82年に当時やはり弱かった西武の監督に就任し、1年目で日本一に導いた。
監督やコーチの仕事は、単に毎日の試合の打順を組んだり、誰を投げさせるか決めたり、誰を1軍に上げるか、誰を2軍に下げるかを決めるだけではない。
名監督・名コーチは、個々の選手をよく観察することができ、選手が不調なときは、その原因を的確に見抜き、適切なアドバイスをすることができ、ひいては選手の能力を引き出すことができる。
そのような洞察力は、若き選手時代にどれだけ悩み、どれだけ多くのものを観察し、どれだけ考えたか、によって培われるのではないか。
「名選手に名監督いない」と言われるが、確かにそうだ。
野村克也は例外だ。
野村は、王貞治に次ぐ本塁打を打った名選手だったが、入団前は家が貧しく大変苦労した。
入団後はキャッチャーとしてよく頭を使い、後に広岡達朗と同じく名監督になった。