損保ジャパン株式会社と共栄火災保険株式会社は、過去のすべてを反省して出直しを。

今年世間を賑わした中古車販売最大手ビッグモーター社の保険金不正請求事件に、損害保険会社の損保ジャパン、共栄火災が深く関与していたことが明らかになってきた。

損保ジャパンは、白川さんが社長を辞任されたが、誰が社長でも白川さんと同じ決定をしただろう。

ビッグモーター社の長年にわたる不正が公に露呈したのが、たまたま白川さんが社長だった時というにすぎず、むしろ運が悪く気の毒にさえ思える。

記者会見を見ていたが、誠実な受け答えをされていた。

 

年間100億円近い保険料を運んでくれる代理店をそう簡単に切れるものではない。

近年、損害保険会社は事業の効率化のため、大型代理店を益々厚遇し、規模の小さな代理店には益々冷淡になってきている。

 

保険会社と大型自動車売店の癒着に最も貢献しているのは、自賠責保険だろう。

1件の自賠責保険につき、保険会社の取り分は、保険料の高低に関わらず一律5000円である。

保険会社にとって、この1件5000円というおいしい制度がなくならない限り両者の癒着はなくならない。

 

損保ジャパンは、2006年にも業界のルール違反で1か月の業務停止命令を受けた。

近いうちに17年ぶりの業務停止命令を受けることになるだろう。

しかし業務停止が開けた後も、この会社の利益至上主義でコンプライアンス軽視の経営体質が変わらない限り、今後もルール違反と業務停止命令を繰り返すことになるだろう。

特に損保ジャパンの前身の安田火災は、ルール違反を繰り返して大きくなった。

 

ある保険代理店Yは、ガラス販売業者Mから火災保険のみを頂いていた。

M社は8台の車を所有していて、うち4台を東京海上の砂川代理店に、残りの4台を興和火災の太田代理店に自動車保険をつけていた。

そこに安田火災の代理店をしていたS自動車販売店がM社に、

「自動車事故発生の際、電話1本を頂ければ、相手側への訪問謝罪を含め示談交渉はすべてこちらでやります。」

と言うので、M社は現存契約をすべて解約し、8台分をまとめてS自動車販売店安田火災につけた。

ところが、事故が実際に起きて電話をしても、S自動車販売店は全く動いてくれなかった。

安田火災に電話しても、「ではM代理店に報告しておきます。」と言うだけで何もしてくれない。

困ったM社は、火災保険をつけていたY代理店に相談した。

Y代理店は、安田火災に代わって事故の相手方と交渉を行い解決に導いた。

M社は、今後すべての自動車保険8台分をY代理店につけると約束。

そこで安田火災についている8台分の自動車保険の証券を見ると、8台分がいずれも無事故等級が同じ等級になっていた。

M社は、所有自動車台数が10台未満のノンフリート契約者なので、8台すべてが同じ無事故等級になることは考えられない。

安田火災がルール違反をして特別料率で自動車保険契約を引き受けたことになる。

Y代理店は、当地の保険代理業協会を通じて安田火災の不正を訴えた。

保険代理業協会が実際に動いたのは、それから1年も経った後だそうだ。

その間に安田火災の不正が複数確認されたため、代理業協会が腰を上げることにした。

代理業協会から不正を訴えられた安田火災とS自動車販売店は、Y代理店を呼び出した。そしてルール違反を謝るどころか、

「お前が余計なことをするから、M社に追加保険料をもらわなければいけなくなった。」

と逆にY代理店を責めた。

 

 

農協系列の共栄火災は、会社の規模は大きくないが、これまでどの保険会社とも合併せず頑張ってやってきた。

しかし内実はとても苦しいのだろうか、大手と同様に利益至上主義なところがある。

損保ジャパンがビッグモーター社に計37名の出向者を出していたのに対し、共栄火災は出向者なしだった。

しかし事故車の査定の際、損保ジャパン以上の通常あり得ない便宜をビッグモーター社に与えていた。

 

T保険代理店には、従業員の一人に営業の得意なM氏がいた。

彼は、次第にのぼせあがり横柄な振る舞いを始めたため店主はM氏を解雇した。

腹を立てたM氏は、既知のS代理店と組んで、T代理店の保険契約を次々と奪っていった。

S代理店は、共栄火災の代理店であり、M氏は無届け募集である。

共栄火災の支社長は、M氏が無届け募集であることを知っていたが、自らの数字が伸び栄達することを期待し黙認していた。

T代理店は、もともと自店についていた保険契約が専ら共栄火災のS代理店に流れていることを不審に思い、保険代理業協会を通じて共栄火災を訴えた。

共栄火災の支店長と支社長は、T代理店主に対し証拠を出せと迫ったため、T代理店主は証拠として十分な音声データをそろえて共栄火災の本社を訪れ審査して頂くようお願いをした。

それからしばらくして共栄火災の支店長と支社長はT代理店主を訪れ、嘘をついていたことを謝罪し、共栄火災は永久にM氏と代理店契約を結ばないことを約束した。

「ビバ!クイズ」応援記

以前、地元のテレビ局に「ビバ!クイズ」という番組があった。

10人の小学生が早押しでクイズに回答するという形式だった。

毎週月曜から金曜の夕方5時台に放送していて、私もよく見ていた。

昔は、「6〇〇こちら情報部」「開け!ポンキッキ」「できるかな」など子供向けのテレビ番組が多かった。

 

小学6年生の時、クラスメートのK君がその「ビバクイズ」に応募し参加することになったことがわかった。

クラスでは大騒ぎになった。

クラスの男子生徒のほぼ全員がK君の応援に行くことになった。

 

その日は天気が良くなく、雨が降っていた。

それでも我々大応援団は、集団になってテレビ局まで行進した。

 

収録が始まった。

司会者に促されてK君が自己紹介をした後、大応援団が「K君、ガンバレよ!」と大きな声をかけた。

私もできる限りの大声を出した。

 

全部で10問の質問があり、そのうちの1問は音楽の問題であった。

楽家の友井さんがピアノを演奏して、その曲に関連する質問に答える、という形だった。

あいにく回答者の誰も制限時間内に答えることができなかった。

私は、友井さんの近くで座っていた。

友井さんは、「誰か答えてくれないかな。」「難しかったかな」といった表情を浮かべた。

 

K君は、結局1問も回答しなかった。

私たちは、拍子抜けした。

 

番組は、1週間分をまとめて前の週の土曜日に収録した。

ちょうど回答者に欠員が出て、テレビ局側から応援に来ている生徒の中で希望者が募られた。

何人か声を上げ、じゃんけんの結果、なんとクラスメートのM君が選ばれた。

M君は、クラスで最も優秀な男子学生である。

彼は、果敢に数問の質問に早押し回答した。

 

天仙液の王振国医師訪問記

2017年3月慢性鼻炎と耳管開放症の治療のため北京を訪れた。

2週間の滞在中に4回病院に通い、空いた時間で万里の長城頤和園、北海公園、盧溝橋、円明園、天壇公園など北京の主だった観光地を観光した。

 

2週間の滞在も残りわずかとなった。

最後にどこに行くか、オリンピック公園や朝陽公園などまだ行っていない観光地もあったが、それらをあきらめ、王振国病院を訪れてみることにした。

 

当時住んでいた九州のアパートのすぐ近くに市立図書館があり、よく利用していた。

ある時『漢方によるがん治療』のタイトルが目に留まった。

漢方薬でガンが治らないかは、常々考えていたことだし、実際に医者自身がガンになると、漢方で治そうとすると以前何度か聞いたことがあった。

その書中には、王医師が天仙液を作ろうと思ったきっかけや天仙液の毒性を調べているときのエピソードなどが書かれていたが、天仙液がどのようにしてその配合に決まったかなど大事な記述はなかった。

 

王振国病院は、北京市の南の郊外にあり、中心部からは随分離れている。

北京市中心部から真南に延びる地下鉄に1時間くらい揺られたか。

駅を出てから次にどのように向かうか少し迷った。

 

個人が建てたとは思えない大きな病院であった。

中国では医者は全員勤務医なので、このような個人経営の大病院に驚いた。

 

私たちが行った時は午後だったためか、人気がなく閑散としていた。

受付で王医師がいらっしゃるかどうか尋ねると外出中だと言われたが、日本から見学に来たことを伝えると、王医師の執務室に通された。

 

部屋に入ると、王先生はちょうどビジネスの電話をされていた。

有能な医師に色々なビジネスの話が持ち込まれるのは仕方がないことだ。

 

王先生は、数日前にも日本から見学団が来ていたこと、これまでに1万人の日本人が天仙液によってガンが治ったこと、ある日本人は感謝のため王先生に1億円の寄付をしたこと、日本に天仙液を作る工場を建てたいと思っていること、などおっしゃった。

その後、執務室を出て王先生自ら病院内を案内された。

 

折角遠くから来たので、王先生と別れた後もすぐには帰らず、広大な病院内をもうしばらく見学することにした。

とても大きな中庭があり、歩いていると、患者本人か患者の付き添いらしき人に出会ったので、声をかけてお話を伺った。

 

最初に声をかけた人は、山東省荷澤市から来ていた方だった。

10歳にならない孫の鼻にガンができたと言う。

荷澤市は、山東省の中でも特に貧しいところで有名だ。

何か体に悪いものを食べ続けてきたのだろうかと想像した。

もちろんガンの生因はさまざまで想像の域を過ぎない。

おじいちゃんからガンが見つかるまでの経緯を話して頂いた。

「食欲がなくなって…」などと言われた。

 

私たちは、次に食道がんの患者本人に声をかけお話を聞いた。

 

私たちは、再び建物内に入り病棟内を見学した。

手術室があった。

さすがに天仙液だけではガンは治らないことは承知されている。

 

鼻にガンができた子をお見舞いしようと妻と話し合い、ナースセンターでその子が入院している病室を調べてもらった。

その子はお母さんと一緒だった。

お子さんは一見そんな大病を患っているふうには見えなかった。

 

私たちは一旦王振国病院に別れを告げ帰途についた。

地下鉄の駅に向かって沈んだ気持ちで歩いている途中、妻が「お見舞いの品を持って、その子をもう一度訪れたい」と言い出した。

妻は、優しい心を持っている。

私は即座に賛成した。

近くの露店でバナナ、リンゴなど果物を買い求め、病院にとんぼ返りし再びその親子をお見舞いした。

その子のお母さんは、私たちの名前を教えてほしいと言われたが、反日感情が強い中国人が多いことを考慮して私たちの素性を明かさなかった。

 

名監督・名コーチについて

1978年10月22日は日曜日で、私は、家族と一緒に川の上流の方にある小さなお店へ行き川魚を食べた。

その店にあった1台のテレビが、ちょうど日本シリーズ、ヤクルト対阪急の最終戦を放送していた。

当時の私は小学2年生で、すでに野球への関心が強く、地上波で巨人戦をよく見ていた。

野球のルールもテレビ中継を見ながら知らないうちに短期間で覚えた。

 

その日のヤクルトは、エース松岡弘が投げていた。

コントロールが定まらず、監督だったかピッチングコーチだったかがマウンドに行って何か話をした途端にコントロールがよくなった。

私は、不思議なことだと思いながら中継を見ていた。

その後、ヤクルトの大杉選手のホームランを巡り、阪急の上田監督が猛抗議し試合が中断した。

中断が長時間に及び、場内が騒然としていたことなど、今でもおぼろげながら覚えている。

最後はヤクルトが勝利し、この年の日本一になった。

 

その後今日まで長く野球を見てきて思うことがいくつかある。

そのうちの一つは、監督によってチームが容易に浮上したり、沈下したりするということ。

広岡達朗は、当時弱小チームだったヤクルトの監督に就任して、2年目には球団を2位に押し上げ、3年目には日本一に導いた。

ヤクルト退団後、82年に当時やはり弱かった西武の監督に就任し、1年目で日本一に導いた。

 

監督やコーチの仕事は、単に毎日の試合の打順を組んだり、誰を投げさせるか決めたり、誰を1軍に上げるか、誰を2軍に下げるかを決めるだけではない。

名監督・名コーチは、個々の選手をよく観察することができ、選手が不調なときは、その原因を的確に見抜き、適切なアドバイスをすることができ、ひいては選手の能力を引き出すことができる。

そのような洞察力は、若き選手時代にどれだけ悩み、どれだけ多くのものを観察し、どれだけ考えたか、によって培われるのではないか。

 

「名選手に名監督いない」と言われるが、確かにそうだ。

野村克也は例外だ。

野村は、王貞治に次ぐ本塁打を打った名選手だったが、入団前は家が貧しく大変苦労した。

入団後はキャッチャーとしてよく頭を使い、後に広岡達朗と同じく名監督になった。

2003年SARSの出現

2002年9月に日本語講師として烟台市にあるN大学に着いた。

そして、その年の冬に中国南方の広東省SARSが出現した。

翌年3月に本格的に感染が広まり、中国全土に拡大した。

 

SARSのことを中国語では「非典型性肺炎」といい、人々は最初の2文字を取って「非典」と呼びならわした。

不思議な名称だなと密かに思っていたら、中国人の学生の一人が「名前が面白い」と私に言ったので、中国人も同じように思っていることがわかった。

 

宿舎のテレビでリアルタイムの感染状況を毎日よく見ていた。

感染状況は、北京とその北にある内モンゴル自治区でひどかった。

私が住んでいた山東省は、幸い感染が少なく、全く脅威を感じなかった。

対岸の火事を見ている感があった。

それでも大学の職員が一度宿舎を訪れ、部屋の隅を申し訳程度にアルコールを霧吹きしていった。

 

学長の娘が、私が日本に戻ってきてもいいと言ったが、その必要はなかった。

中国全体でみると大火事になっているが、私がいた所はマスクをする人もおらず、平時と全く変わりなかった。

SARSは、その年の7月には終息し、短い命運をたどった。

 

それから17年後、今度は新型コロナウィルスが大流行した。

こちらの方は、変異を繰り返して生き続けおり、現在もまだ大流行中である。

発声障害の改善

幼稚園児の時の記憶は定かではないが、小学校低学年時には、声が出しにくいという自覚があった。

その理由で中学年以後、クラスの青木君にいじめられていたことがあった。

そのことを母に言ったら、母が青木君のお母さんに話をしたようで、青木君の態度が急に良くなった、といったことがあった。

特に男性特有の低い声が出にくく、女性のような笛を吹いたような高い声しか出なかったため、クラスの竹林さんにからかわれていたこともあった。

 

声が出にくい原因として思い当たるのことが主に3つある。

1つ目は、幼児期に扁桃とのどちんこの摘出手術を受けたこと。

2つ目は、重度の慢性鼻炎を患っていたこと。

また、鼻の中がひどく曲がっていて、24歳の時、H大学病院で手術をして真っ直ぐにした。

もともとはアデノイドのみを摘出するために手術に臨んだのだが、手術後になって初めて医師から「鼻の中もついでに切った。別人の鼻になったよ。」と言われた。

当時は、インフォームドコンセントについては、まだうるさく言われていなかった。

アデノイド摘出手術によって、慢性鼻炎は確かに軽減した。

手術前は、ビールを飲むと、おいしいと思う時とすごく苦く感じるときがあり、飲み始める前に、「今日は苦くないように」と心の中でひそかに祈ってから飲んでいたものだった。

ところが、手術後は、どういうわけか苦いと思うことはなくなり、ビールをいつもおいしく飲めるようになった。

3つ目は、家庭内での緊張。

 

発声障害があると、社会生活のあらゆる場面で厳しい制約を受ける。

物心がついた時には、すでに声が出しにくかったので、自分一人だけが声が出しにくいのだと思わず、他の人も同じだと思っていた。

しかし、成長していくにつれ徐々に、自分が他の人とは違うのでは、と思うようになっていった。

 

20歳を過ぎた頃から声の改善のために本の朗読を始め、断続的に現在まで30年間続けている。

数年に1回声が出やすいことがあったため、不可逆的な障害ではなく、治る可能性があるのではと希望をもって朗読に取り組んだ。

ボイストレーニングや吃音の本をたくさん読んだが、どれも役立たなかった。

 

そして今年の夏ごろから発声の仕方がようやくわかり始めた。

それは、

①舌の位置は、適正に前方かつ下方向に。

舌がのど側に寄ってのどを塞がないように。

②こめかみから出発して真下に下りる直線上のある筋肉が緊張し過ぎていないように。

特に、あごの出っ張り部分付近の筋肉の緊張に注意する。

声の出が良くない時は、その部分を手でマッサージすることも有効。

こうすることで鼻に声が共鳴し、発声が楽になった。

 

よく本に書かれている腹式呼吸が最も大事であるということではなかった。

日本語教育能力試験を受験

山東省烟台市にあった共産党学校(党校)で日本語教師をしていたが、ビザがどうしても延長できず、やむを得ず3か月間で党校とお別れし帰国した。

中国の大学の日本語学科などで日本語教師をする場合、特に資格は必要なかった。

しかし、その後も長く中国で日本語教師をするのなら、責任ある教師として、きちんと勉強し、正規の資格を持っていたほうがいいのではと思い、半年後の10月に行われる日本語教育能力試験を目指し勉強することにした。

 

アルクの通信講座を申し込み、勉強を開始した。

日本語教育能力試験の合格率は、近年は30%近くのようだが、私が受験した当時は17%前後とかなり低かった。

 

当時はまだ頚腕の痛みをこらえながらの勉強であった。

痛みがひどいときは、テキストを逆さにして読んでみたらどうかと思って本当にそうやってみたり、悪戦苦闘した。

 

試験勉強のかたわら中国語を教えるアルバイトをした。

一つは、YMCA内の中国語教室の先生。

YMCAの須郷さんにうまくまるめ込まれて、自分で大丈夫かなと思いながら引き受けたのだが、不安が的中した。

3、4回授業を行った後、声がかからなくなった。

 

二つ目は、中国語の家庭教師。

こちらのほうは、生徒さんが私を気に入ってくれたらしく、当初はピンインの読み方など発音だけを教える予定だったが、希望されて発音終了後も引き続き教えた。

 

勉強を進めているにつれ、アルクのテキストだけでは、試験範囲をすべてカバーしきれていないことがわかり、時々近くの書店で立ち読み勉強した。

当時は、まだ30歳代前半だったので、一度勉強したら相当程度頭に残った。

肝心のヒアリングの試験対策は、単語カードを作って、毎日繰り返して念入りに勉強した。

 

10月の試験は、名古屋市にある名城大学で行われた。

当日行くと、たくさんの教室が試験会場になっていて、受験生の多さに驚いた。

 

試験の感想は、やはり難しかった。

今でも覚えている唯一の設問は、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を問うたもの。

当時は、その本のことをまだ知らなくて、悩んだ末、誤答した。

 

実際に日本語教師になってからは使うことがなさそうな専門的な設問が多かった。

当時の日本語教育能力試験は、年々専門性が高まり、難易度が上がっていた。

試験の結果に自信がなく、合否発表がある日まで、受験生のツイートをインターネットでよく見ていた。

 

頚腕の痛みがなかったならば、半年という長い準備時間で合格は難しくなかったと思う。

毎日痛みと闘いながら勉強しなければならず大変だった。

 

合否発表は、試験から2か月後にあった。

発表当日、自宅で待っていたら来訪者のチャイムが鳴ったので、ひょっとしたら合格かな、とドキドキした。

もし不合格なら、郵便局の配達員は、チャイムを押さずに発表通知書を他の郵便物と一緒に郵便ポストに入れ、静かに立ち去ったにちがいない。

 

結果は、合格。

思わずガッツポーズをした。

不合格だったらもう1年間勉強するつもりだったので、1年間の時間を無駄にせずに済んだ気分だった。