認知症対策としての家族信託

 

認知症発症による財産凍結を防ぐ手段として、家族信託が一部でブームになっています。
家族信託という手段があることは、もっと世間に知らされるべきです。
成年後見人制度は、費用の面でも使い勝手の面でもとても不便です。
後見人となる弁護士や司法書士を儲けさせるためにこの制度があるのではと思ってしまいたくなります。
最近では国もようやく重い腰を上げて、成年後見人制度を改正しようとする動きはじめました。


一方で、家族信託も決して安価ではありません。
この制度を使っても、財産評価額の1.5~2%が失われます。
財産評価額に比例して個人・法人の信託請負会社に支払う料金が上がります。
物件の数に応じて料金が上がる仕組みではありません。
この制度も現在のところは、富裕層向きで、一般の庶民向きではあるとは言えません。
財産の目減りをできるだけ抑えて認知症対策を行うなら、銀行預金については代理人届出制度の利用が有効です認知症発症による銀行口座・資産凍結を防ぐ事前対策・事後対策 - 認知症から財産を守る)。

しかし、不動産については、現在、家族信託以外にいい制度がありません。
家族信託よりも価格面で優れた、よい制度ができることを期待します。


参考:【最新2026】「おやとこ」評判は?実体験に基づく検証と詳細他社比較・料金・デメリット - 認知症から財産を守る

『路傍の石』(山本有三著)を40年ぶりに読んで

実家の押入れに40年近く眠っていた『路傍の石』を取り出し、声に出して通読した。

過去に読んだことがあることが疑われるくらい、読み進める中で思い出す場面は一つもなかった。

主人公・吾一がどのような結末を迎えるのか、彼の人生が少しでも好転するのかを案じながらページをめくった。

 

心に留まったところ

  1. 同級生秋太郎の姉おきぬの吾一に対する態度の著しい変化。
    吾一はおきぬに好意を持っていたが、彼女の父が営む呉服屋いせ屋の奉公人になると、それまでの友情が全くなかったかのように、彼女の吾一に対する態度が一変、冷酷になった。

  2. 吾一がいせ屋に奉公に出てしばらくして、母・おれんが亡くなった。吾一が16か17歳あたりのことで、おれんはまだ30代~40代前半だが、心臓に穴が開いて亡くなった。そんなに早く母を亡くす展開にする必要はあったのか。

  3. 父・庄吾の行方。
    最高裁での裁判結果は明示されていないが、敗訴だったことを暗示する描写がある。
    「彼は、なんだか、むしょうに、泣きたくなってたまらなかった。」
    「お、おれはな、いい人間じゃないんだ。おれは、おれは‥‥」
    居酒屋で食事をする庄吾の描写を最後に、彼のその後の記述はなくなった。

  4. 吾一が自ら文選工の求人を見つけ、黒田の助けもあり、ようやくいい職場に巡りあえたのかと思いきや、またもやひどいところだった。奉公先や職場を変えるたびに、まわりの吾一に対する扱いがひどくなった。

  5. 次野先生という素晴らしい先生と出会う幸運に恵まれた。

山田先生の思い出

山田直志先生は、今から35年前、私の大学生時代の担任であった。

先生の専門は国際経済学

 

山田先生が自己紹介をされたときにおっしゃったことで今でも覚えているのは、

「試験で学生に「秀」はあげない。決してあげないというわけではないが…」

当時の私は、試験の成績には執着がなかったので、「おっしゃるのは至極当然なことだ。余程の長い時間をかけて、いろんな文献や論文を読み込んで試験に臨んだのでもなければ。」と思った。

それから先生は、自分の姓が「山田」であることにも少し触れられた。

ご自分の姓があまり好きではなかったようだ。

この2つ以外は覚えていない。

 

先生は授業を英語でされた。今の私であれば多少聞いてわかるだろうが、当時は全くわからなかった。

一度同学年の受け持ちの学生が山田先生の家に招待された。

奥様がいらっしゃったかどうかも何を食べたかも覚えていない。

覚えているのは同級生の橘君が壁に掛けられた絵を見て「まるで写真のようだ」と私に言ったこと。

部屋の様子は今でもぼんやりと覚えている。

 

私は大学に入学すると同時に、学業に専念できないほど首の後ろや背中が強い痛みに襲われる、という不運に見舞われた。

1年間の休学を挟み、入学から2年半後に大学を退学することになった。

私は、お世話になった保健管理センターの中込先生と担任の山田先生にあいさつに行った。

山田先生には、先生の研究室でお会いした。

先生は、私が何に困っているのか、よければ教えてくれないか、とおっしゃった。

先生は、経済学の博士か何かの試験が、重箱の隅を楊枝でほじくるような問題が出て、ノイローゼに陥る受験生がいることや、先生の妹がうつ病か何かの病気で苦しんでいることを正直に打ち明けれた。

私は、原因不明の痛みが他人に理解されるはずもなく、先生に本当のことが言えなかった。

 

原因不明の痛みが治ったのは37歳の時。

43歳で再び大学生になったが、私より25歳も若い同級生と親友になれるわけもない。

若い時分に入った大学時代に、健康であったなら、と折に触れて思われる。

 

 

『養生の実技―つよい体でなく-』(五木寛之著 角川書店)を読んで

2004年12月初刊。

10年前に父が私に読むようにと手渡された。

今回再読。声に出して2度通読した。

 

この本を読んで私なりに思うこの本の要点は、

「親からいただいた体を日頃から大事にすること。自分なりの養生法をもち、それを日頃から実践すること。自分の体を医者まかせにしてはいけない。」

ということです。

養生法については、自分で編み出すことができれば最もよし、他人が実践している養生法で、これいいな、と思うものを借用してもよし。

生来体が丈夫で病気をしたことがなく、無病を自慢している人は、自分の体を過信して大事にしていないことが多く、ある日突然不治の病にかかり慌てふためくことになる。

 

五木さん自身の養生訓が書の最後に100か条紹介されている。

五木さんは現在91歳。

私は、ここ数年来、NHKラジオ深夜便で何回か五木さんの声を伺ったが、とても91歳のかたの声とは思われず元気そうであった。

その五木さんが書かれた養生書であるので、説得力がある。

 

その養生訓の56条は、「病院は病気の巣である。できるだけ近づかないほうがよい。」

五木さんは、あるとき3か月下血がつづいたが、覚悟を決めて、病院に行かなかった、とある。

わたしなんぞは、1週間下血が続けば、大腸がんにでもなったか、と心配でいられなくなる。

痔が原因の出血だったのでしょうか。

 

本書によると、五木さんは、長年偏頭痛や腰痛に悩まされて、病院に行ってもよくならないので、みずから試行錯誤されて対処法を見つけ、これらの病を克服された。

どのように克服されたか詳しく書かれているので、同じ偏頭痛、腰痛で苦しんでおられるかたには大いに参考になるでしょう。

五木さんの偏頭痛は、低気圧が近づいてくると発作が起きる、風呂に入ると悪化する、水をたくさん飲むと具合が悪くなる、のだそうです。

漢方をかじっている私は、五木さんの偏頭痛は「水」が関係していそうだ、だとすれば「五苓散」を代表とした利水作用がある漢方薬が効くかもしれないと思いました。

 

鎮痛剤を飲めば、すぐに吐いてしまう。吐くものがなくなっても、胃が痙攣して黄色い液があふれてくる。そういう状態に毎月、何度も襲われるのだからたまらない。頭を壁にガンガン打ちつけて、とまらなくなったこともある。

 なんとでもしてこの偏頭痛を治めたい、と真剣に考えた。そして体の発する声なき声に耳を傾けることに、全神経を集中するようにつとめた。そんな努力がむくわれたのか、やがていろいろなことに気づくようになってきた。

 偏頭痛がおきる五、六時間ほど前に、ある予兆のような感覚が訪れてくることがわかってきたのだ。

 

うしろ歩きと四足歩行以外に私が意識してやっていたことがいくつかある。それは「膝を緩める」「腰を折らない」ということだった。

 たとえば地面にあるゴルフボールを拾うときには、絶対に前かがみにならない。プロの選手で、よく片脚を鳥のようにはねあげてカップインしたボールをつまみあげる人がいる。あれは最悪だ。

 テレビで全英オープンなどを見ていて、

「あ、あの選手、そのうち腰を痛めるな」

と、思っていると、何年かたつと必ず腰痛で成績が落ちてくる。そういうことが何度もあった。

 

 

ドイツでのエピソードがおもしろい。

ドイツでは、低気圧が近づくと、パフォーマンスが低下するから、ドライバーは事故防止のためスピードを下げ、病院では手術を行わない、という。

本当なのでしょうか?

 

五木さん養生訓16条は、「洗髪はほどほどに。皮脂や歯垢にもそれなりの役目がある。」

五木さんは、若いころは年に2回、この書を出された当時は2か月に1回しか洗髪されない。

福山雅治さんも髪を洗わないらしい。

私の父は、五木さんを見習って、入浴2回につき洗髪1回に洗髪の頻度を下げたら、たちまち頭がかゆくなってきて閉口したそうだ。

髪を洗わないなら中途半端に洗わないのはだめで、徹底して髪を洗わないことが大事なのでしょう。

「ビバ!クイズ」応援記

以前、地元のテレビ局に「ビバ!クイズ」という番組があった。

10人の小学生が早押しでクイズに回答するという形式だった。

毎週月曜から金曜の夕方5時台に放送していて、私もよく見ていた。

昔は、「6〇〇こちら情報部」「開け!ポンキッキ」「できるかな」など子供向けのテレビ番組が多かった。

 

小学6年生の時、クラスメートのK君がその「ビバクイズ」に応募し参加することになったことがわかった。

クラスでは大騒ぎになった。

クラスの男子生徒のほぼ全員がK君の応援に行くことになった。

 

その日は天気が良くなく、雨が降っていた。

それでも我々大応援団は、集団になってテレビ局まで行進した。

 

収録が始まった。

司会者に促されてK君が自己紹介をした後、大応援団が「K君、ガンバレよ!」と大きな声をかけた。

私もできる限りの大声を出した。

 

全部で10問の質問があり、そのうちの1問は音楽の問題であった。

楽家の友井さんがピアノを演奏して、その曲に関連する質問に答える、という形だった。

あいにく回答者の誰も制限時間内に答えることができなかった。

私は、友井さんの近くで座っていた。

友井さんは、「誰か答えてくれないかな。」「難しかったかな」といった表情を浮かべた。

 

K君は、結局1問も回答しなかった。

私たちは、拍子抜けした。

 

番組は、1週間分をまとめて前の週の土曜日に収録した。

ちょうど回答者に欠員が出て、テレビ局側から応援に来ている生徒の中で希望者が募られた。

何人か声を上げ、じゃんけんの結果、なんとクラスメートのM君が選ばれた。

M君は、クラスで最も優秀な男子学生である。

彼は、果敢に数問の質問に早押し回答した。

 

天仙液の王振国医師訪問記

2017年3月慢性鼻炎と耳管開放症の治療のため北京を訪れた。

2週間の滞在中に4回病院に通い、空いた時間で万里の長城頤和園、北海公園、盧溝橋、円明園、天壇公園など北京の主だった観光地を観光した。

 

2週間の滞在も残りわずかとなった。

最後にどこに行くか、オリンピック公園や朝陽公園などまだ行っていない観光地もあったが、それらをあきらめ、王振国病院を訪れてみることにした。

 

当時住んでいた九州のアパートのすぐ近くに市立図書館があり、よく利用していた。

ある時『漢方によるがん治療』のタイトルが目に留まった。

漢方薬でガンが治らないかは、常々考えていたことだし、実際に医者自身がガンになると、漢方で治そうとすると以前何度か聞いたことがあった。

その書中には、王医師が天仙液を作ろうと思ったきっかけや天仙液の毒性を調べているときのエピソードなどが書かれていたが、天仙液がどのようにしてその配合に決まったかなど大事な記述はなかった。

 

王振国病院は、北京市の南の郊外にあり、中心部からは随分離れている。

北京市中心部から真南に延びる地下鉄に1時間くらい揺られたか。

駅を出てから次にどのように向かうか少し迷った。

 

個人が建てたとは思えない大きな病院であった。

中国では医者は全員勤務医なので、このような個人経営の大病院に驚いた。

 

私たちが行った時は午後だったためか、人気がなく閑散としていた。

受付で王医師がいらっしゃるかどうか尋ねると外出中だと言われたが、日本から見学に来たことを伝えると、王医師の執務室に通された。

 

部屋に入ると、王先生はちょうどビジネスの電話をされていた。

有能な医師に色々なビジネスの話が持ち込まれるのは仕方がないことだ。

 

王先生は、数日前にも日本から見学団が来ていたこと、これまでに1万人の日本人が天仙液によってガンが治ったこと、ある日本人は感謝のため王先生に1億円の寄付をしたこと、日本に天仙液を作る工場を建てたいと思っていること、などおっしゃった。

その後、執務室を出て王先生自ら病院内を案内された。

 

折角遠くから来たので、王先生と別れた後もすぐには帰らず、広大な病院内をもうしばらく見学することにした。

とても大きな中庭があり、歩いていると、患者本人か患者の付き添いらしき人に出会ったので、声をかけてお話を伺った。

 

最初に声をかけた人は、山東省荷澤市から来ていた方だった。

10歳にならない孫の鼻にガンができたと言う。

荷澤市は、山東省の中でも特に貧しいところで有名だ。

何か体に悪いものを食べ続けてきたのだろうかと想像した。

もちろんガンの生因はさまざまで想像の域を過ぎない。

おじいちゃんからガンが見つかるまでの経緯を話して頂いた。

「食欲がなくなって…」などと言われた。

 

私たちは、次に食道がんの患者本人に声をかけお話を聞いた。

 

私たちは、再び建物内に入り病棟内を見学した。

手術室があった。

さすがに天仙液だけではガンは治らないことは承知されている。

 

鼻にガンができた子をお見舞いしようと妻と話し合い、ナースセンターでその子が入院している病室を調べてもらった。

その子はお母さんと一緒だった。

お子さんは一見そんな大病を患っているふうには見えなかった。

 

私たちは一旦王振国病院に別れを告げ帰途についた。

地下鉄の駅に向かって沈んだ気持ちで歩いている途中、妻が「お見舞いの品を持って、その子をもう一度訪れたい」と言い出した。

妻は、優しい心を持っている。

私は即座に賛成した。

近くの露店でバナナ、リンゴなど果物を買い求め、病院にとんぼ返りし再びその親子をお見舞いした。

その子のお母さんは、私たちの名前を教えてほしいと言われたが、反日感情が強い中国人が多いことを考慮して私たちの素性を明かさなかった。

 

名監督・名コーチについて

1978年10月22日は日曜日で、私は、家族と一緒に川の上流の方にある小さなお店へ行き川魚を食べた。

その店にあった1台のテレビが、ちょうど日本シリーズ、ヤクルト対阪急の最終戦を放送していた。

当時の私は小学2年生で、すでに野球への関心が強く、地上波で巨人戦をよく見ていた。

野球のルールもテレビ中継を見ながら知らないうちに短期間で覚えた。

 

その日のヤクルトは、エース松岡弘が投げていた。

コントロールが定まらず、監督だったかピッチングコーチだったかがマウンドに行って何か話をした途端にコントロールがよくなった。

私は、不思議なことだと思いながら中継を見ていた。

その後、ヤクルトの大杉選手のホームランを巡り、阪急の上田監督が猛抗議し試合が中断した。

中断が長時間に及び、場内が騒然としていたことなど、今でもおぼろげながら覚えている。

最後はヤクルトが勝利し、この年の日本一になった。

 

その後今日まで長く野球を見てきて思うことがいくつかある。

そのうちの一つは、監督によってチームが容易に浮上したり、沈下したりするということ。

広岡達朗は、当時弱小チームだったヤクルトの監督に就任して、2年目には球団を2位に押し上げ、3年目には日本一に導いた。

ヤクルト退団後、82年に当時やはり弱かった西武の監督に就任し、1年目で日本一に導いた。

 

監督やコーチの仕事は、単に毎日の試合の打順を組んだり、誰を投げさせるか決めたり、誰を1軍に上げるか、誰を2軍に下げるかを決めるだけではない。

名監督・名コーチは、個々の選手をよく観察することができ、選手が不調なときは、その原因を的確に見抜き、適切なアドバイスをすることができ、ひいては選手の能力を引き出すことができる。

そのような洞察力は、若き選手時代にどれだけ悩み、どれだけ多くのものを観察し、どれだけ考えたか、によって培われるのではないか。

 

「名選手に名監督いない」と言われるが、確かにそうだ。

野村克也は例外だ。

野村は、王貞治に次ぐ本塁打を打った名選手だったが、入団前は家が貧しく大変苦労した。

入団後はキャッチャーとしてよく頭を使い、後に広岡達朗と同じく名監督になった。