山田先生は、当時国立T大学の国際経済学の教授だった。
私を含めた数人の新入生から成る小グループは、山田先生の担任となった。
ご縁があった。
一度、山田先生が私たちをご自宅に招待された。
今からもう30年以上前のことなので、どのようにして先生のご自宅に向かったか、どんな料理が出されたか、山田先生のご家族とお会いしたかなどは全く覚えていない。
ただご自宅の中の様子をおぼろげながら覚えている。
山田先生が授業か何かで私たちにおっしゃったことで覚えているのは、
「私は、学生の試験に"秀”はつけない。絶対につけないということはないが…」
「アメリカでは、裸の女性が出てくる番組はお金を払わないと見れない。しかし日本では…」
「山田という名前については…」
授業は、最初から最後まで英語のみで行われた。
大学を中途退学する際に、最後のご挨拶に研究室で先生とお会いした。
先生は、私のために、入学試験には合格したが入学しなかった私立C大学にわざわざ電話して私が途中から入学できないか掛け合って頂いた。
経済学の博士号をとる試験で重箱の隅を楊枝でほじくるような非常に細かい問題が出るため、ノイローゼになる受験生がいることや、先生の身近な人が心の病でずっと治療していることを打ち明けられた
。
中込先生は、保健管理センターのカウンセラーであった。
最初のカウンセリングで私が正直に言いにくい悩みを伝えたときに、微妙な表情をされたのは忘れられない。
何度か先生のカウンセリングを受けたが、どんなことをおっしゃったのか思い出せない。
中途退学の届出をした後、保健管理センターに向かい、中込先生にも感謝とお別れのごあいさつをした。
その日先生が保健管理センターにいらっしゃったのは本当にたまたまだったため、先生が「よく会えたなあ」と驚かれた。
帰郷後しばらくして中込先生からお電話があり、こちらでたまたま学会があるのでついでに会わないかと言われた。
先生は、お車ではるばるT大学からこちらの県まで来られ、ファミリーレストランで会食をした。
その時に先生は、ある私立大学から教授として誘いを受けていることや、私が自分自身を正確に見ることができるようになった、とおっしゃった。
別れ際に私のことを忘れないとも言われた。
大変ありがたいお言葉であった。
ご先生がたのご尽力に関わらず、私の病気は治らず、一生治らないだろうと半ばあきらめていたが、37歳の時に奇跡的に全快した。