上海での引越し劇

青島市の公安局で4時間拘留されてからは、ある町に着いたら速やかに最寄りの交番に到着の届出をすることを肝に銘じた。

2010年に妻と一緒に上海のアパートで住むことになり、上海到着後すぐに最寄りの交番に行き到着の届出をしようとした。

ところが、そのアパートの室の所有者が公的に登記されておらず、届出が受理されなかった。

 

上海市長寧区虹纺小区にある6階建ての棟の6階東端の室で、大家は上海市の女性の公務員であった。

70万元以上の価格で購入したというが、ボロボロのアパートで、隣の室の浴室の換気窓がこちらの室の玄関につながっているという、日本では考えられない構造だった。

つまり、隣の住人がお風呂に入った後、換気のため窓を開けると、こちらの玄関に湯気が立ち込めた。

部屋の中にキノコが生え、水洗トイレは壊れていて桶に水をくんで流さなければならなかった。

台所にあるガラス窓は、しっかり閉めることができず、風が強い日には、窓がガタガタ鳴った。

 

妻は、所有者の公務員の女性に室の登記をしてもらえないか直接交渉したが、「登記はしない」と言われた。

不動産屋によると、固定資産税、家賃収入による所得税を逃れるため、登記をしない不動産所有者が少なくないということだった。

到着の届出ができないと不法滞在になり、何らかの不利益をこうむる恐れがあるので、私たちは、仕方なく引越しをすることにした。

 

当時は、まだ胡錦濤国家主席で、その後習近平国家主席になって腐敗撲滅が進められた。

山矢先生の思い出

山矢賢二先生は、京都府の元国語教師で、『漢文の散歩道』(日中出版社)という本を出版されている。

先生とは、2004年から05年にかけての1年間、山東省青島市にあるL大学日本語学科でご一緒させていただいた。

わずか1年間ご一緒させていただいただけだったが、先生との思い出は尽きない。

とにかく仲良くしていただいた。

 

山矢先生は、現役時代、授業中に落語を披露されていたことがあったそうだ。

真面目だが、ユーモアにも溢れた国語教師であった。

ただ、ある生徒から「あまり面白くない」と言われて、ショックで落語をやめてしまわれたそうだ。

 

好きな作家は谷崎潤一郎だと言われた。

題名の面白そうな本を見つけると片っ端から読まれたそうだ。

 

私も学生たちに混じって山矢先生の授業を受けてみたかったが、失礼になるかと思いあきらめた。

もしも私が高校時代に山矢先生の授業を受けていたならば、文学の面白さがわかって興味を持ち、その後の人生もまた変わったものになっていたことだろう。

今振り返ると私の高校の先生はひどい方ばかりだったので、山矢先生のような先生がいてくれていたらどんなにかよかっただろう、と思ったものだった。

 

ある時、山矢先生から「一緒にカレーを作って食べよう」と言われ、私が「それなら学生を誘って一緒に食べましょうか」と提案したところ快諾された。

それから何度もカレーライスを通して学生たちと交流することになった。

学生にとってカレーを食べるのは初めての体験で、「おいしい、おいしい」と何杯もおかわりする学生もいれば、辛くて顔を真っ赤にしてつらそうにしている学生もいた。

 

ある時、私が事前に作ったパーティーで食べるカレーを山矢先生が温められている際、誤って焦がしてしまわれた。

先生は、「焦げていないところをすくって食べよう」とおっしゃったが、私が一口食べてみると、やはり味が変わっていた。

学生たちに「カレーはおいしくないものだ」というイメージをもってもらいたくなかったので、そのカレーは使わないことにし、予定を変更して、その日はレストランでみんなと食事をした。

後日改めて同じメンバーでカレーパーティーを開いた。

 

ある時、日本語学科3年2班の班長と、同じ2班で授業中いつも最前列に座っている数人の学生を誘って、山矢先生と一緒に大学東門近くにあるレストランで食事をしたことがあった。

とても暑い日だったのにレストランのエアコンが壊れていて暑い中で食事をしなければならず、みんなに申し訳なかった。

途中、陳勝呉広の乱の話が出て、班長が「紀元前209年に起きた」と言ったので、私が電子辞書で調べてみたら本当にその通りだった。

すると先生が班長に「まあ、飲みねえ」と言いながら、すかさずビールを勧めたので歓声と笑いが起きた。

 

05年になってから、山矢先生から「結婚記念日に一緒にお祝いしたいので、青島市中心部にあるジャスコ内のレストランで食事をしたい」と誘われた。

その時も学生たちを誘い一緒にお祝いをした。

私も山矢先生も、うな丼をいただいた。

 

ある時、山矢先生の授業中に、ある学生の携帯電話が鳴り、「だれの携帯電話が鳴ったのか」と学生全体に問いかけてもだれも名乗り出なかったので、怒って帰ってしまわれた、ということがあった。

その晩だったか次の日の晩だったか、携帯電話の持ち主と彼のガールフレンドが一緒に山矢先生の部屋を訪れ謝罪したそうだ。

 

とにかく山矢先生との思い出を挙げれば切りがない。

コロナ明けに、妻と娘と一緒に、先生とお会いする計画を立てていたのだが、今年の9月に旅立たれ、かなわぬ夢となった。

先生ともう会えないのだ、と思うと本当につらい。

 

ストイックな中学高校時代

カタールワールドカップ日本代表のキャプテンを務めた吉田麻也選手は、中学校入学以後、体のケアのためにファストフードや炭酸飲料などを避けている、ということを知った。

私も、競技者であった中学高校時代に、同じようなことを実践していた。

 

要らなくなった大きなカレンダーの裏に一覧表を作り、壁に張って、お菓子・菓子パンやジュースを食べ飲みしなかった日は、○を記入し、食べ飲みしてしまった場合は、その程度に応じて△、✕を記入した。

そういったものを一番食べたい盛りだったが、がまんした。

ジュースの自動販売機を見かけると、その前まで行き立ち止まり、「いつか飲みたいな」と思いながらしばらく眺めたものだった。

 

その他の日課として、朝食前と夕食前の一日2回ぶら下がり健康器で懸垂を行い、就寝前には腕立て伏せ・腹筋・背筋を行った。

学校から帰宅後、カバンを玄関に置いて学生服を着たまま町内を走り、自宅でもも上げや両足飛びなどを行った。

スキー場へ行けば、リフトに乗らず、スキー具をつけたまま逆ハの字で山を登った。

これは、結構きつかった。

 

その甲斐あり、中学2年時の市総合体育大会の1500メートル走で、春は3位、秋は2位に入った。

しかし、精神力を重視した、非科学的なトレーニング法であったこともあり、中学3年以降は成績に伸び悩んだ。

 

漢方薬による鼻炎治療遍歴

1980年代に『子どもの鼻はママが治せる』(リヨン社)という本があり、母は新聞広告でこの本のことを知ったのか、とにかく買い求めてきた。

この本の治療法の主体は漢方薬で、著者の西田さんの名前を取って、この治療法を西田式と言った。

 

私は、小学低学年から複数の耳鼻科に通い、ネブライザーをしていたが、全く軽減しなかった。

西洋医学が無効なら、次は漢方で、というのは自然な流れである。

 

こちらの県では、市中心部近くにあるⅯ薬局が独占的に西田式を扱っていて、母は、当時小学4年生の私を連れてⅯ薬局へ行った。

初めて行った時、Ⅿ薬局の薬剤師は、「これまでに当薬局で西田式治療を行って、鼻炎が治らかった患者はいない」と言った。

母は、薬剤師に勧められるままに主役の漢方薬はもちろん、その他にもカルシウム補給のための「電解カルシウム液」、ビタミンやアミノ酸を補給するためのものか「ビーレバーキング液」、野菜を乾燥させた「ボンフライ」、乾布摩擦をするためのブラシなどを購入し、私も真面目に服用・実践した。

薬剤師から野菜炒めを食べるようにも言われて、故祖母が一度野菜炒めを作ってくれたこともあった。

 

この治療法を一年半ほど続けたか、あれこれ漢方薬を換えても効果が表われず、また薬局で買う漢方薬は保険がきかず高価なため、次第に足が遠のいた。

 

漢方薬による鼻炎治療は、その後、高校時代に一時期別の薬局でも試し、また30歳になってから中国滞在中に鼻炎が悪化したので帰国後すぐに漢方専門のクリニックで漢方薬を処方してもらったが全く効かなかった。

 

今から数年前に行った病院実習で、ある薬剤師が「鼻炎で小青竜湯を飲んでいるが効かない」とおっしゃっていた。

4年前に四十肩になった時、二朮湯がてきめんに効いて漢方薬の効果を初めて実感したが、こと慢性鼻炎や鼻閉に対しては漢方薬が効くのかどうか懐疑的である。

2人のお世話になった大学の先生

山田先生は、当時国立T大学の国際経済学の教授だった。

私を含めた数人の新入生から成る小グループは、山田先生の担任となった。

ご縁があった。

 

一度、山田先生が私たちをご自宅に招待された。

今からもう30年以上前のことなので、どのようにして先生のご自宅に向かったか、どんな料理が出されたか、山田先生のご家族とお会いしたかなどは全く覚えていない。

ただご自宅の中の様子をおぼろげながら覚えている。

 

山田先生が授業か何かで私たちにおっしゃったことで覚えているのは、

「私は、学生の試験に"秀”はつけない。絶対につけないということはないが…」

アメリカでは、裸の女性が出てくる番組はお金を払わないと見れない。しかし日本では…」

「山田という名前については…」

授業は、最初から最後まで英語のみで行われた。

 

大学を中途退学する際に、最後のご挨拶に研究室で先生とお会いした。

先生は、私のために、入学試験には合格したが入学しなかった私立C大学にわざわざ電話して私が途中から入学できないか掛け合って頂いた。

経済学の博士号をとる試験で重箱の隅を楊枝でほじくるような非常に細かい問題が出るため、ノイローゼになる受験生がいることや、先生の身近な人が心の病でずっと治療していることを打ち明けられた

 

中込先生は、保健管理センターのカウンセラーであった。

最初のカウンセリングで私が正直に言いにくい悩みを伝えたときに、微妙な表情をされたのは忘れられない。

何度か先生のカウンセリングを受けたが、どんなことをおっしゃったのか思い出せない。

中途退学の届出をした後、保健管理センターに向かい、中込先生にも感謝とお別れのごあいさつをした。

その日先生が保健管理センターにいらっしゃったのは本当にたまたまだったため、先生が「よく会えたなあ」と驚かれた。

 

帰郷後しばらくして中込先生からお電話があり、こちらでたまたま学会があるのでついでに会わないかと言われた。

先生は、お車ではるばるT大学からこちらの県まで来られ、ファミリーレストランで会食をした。

その時に先生は、ある私立大学から教授として誘いを受けていることや、私が自分自身を正確に見ることができるようになった、とおっしゃった。

別れ際に私のことを忘れないとも言われた。

大変ありがたいお言葉であった。

 

ご先生がたのご尽力に関わらず、私の病気は治らず、一生治らないだろうと半ばあきらめていたが、37歳の時に奇跡的に全快した。

 

 

 

 

蘇州号・真鑑真号(大阪ー上海)の思い出

2008年に山口県下関市と中国青島市を結ぶオリエンタルフェリーに乗船して船旅に魅せられた。

オリエンタルフェリーには、その後乗船する機会がなかったが、その代わりに大阪と上海を結ぶ真鑑真号と蘇州号にたびたび乗船した。

 

回を重ねると「あれ、この人見たことがあるなあ」と以前に船上でお目にかかった人と再び船上でお会いすることがあった。

みんな船旅に魅せられた常連さんだ。

 

蘇州号の雑魚寝室は、広くて居心地が良く、私のお気に入りだった。

通路の非常灯・誘導灯が夜間でも煌煌と光を放ち、室内はあまり暗くないが、1日中船に揺られて知らぬ間に疲れがたまるのだろう、明るくても不思議とよく眠れた。

 

その蘇州号の雑魚寝室で2度一緒になったⅯさんは、中国人女性と結婚されて、当時雲南在住であった。

若いころにアメリカに行かれ、アメリカの発展に衝撃を受けられた。

帰国後日本航空関連の仕事をされ、その後中国無錫にある会社で社長を務められ財を築いた。

 

中国人のIさんもまた蘇州号の雑魚寝室で2度一緒になった。

彼の日本語を聞いて最初は日本人だと思ったが、中国人であるそうだ。

大陸と台湾が武力衝突を起こした場合、北京から東側に住んでいる数億人が犠牲になるだろうとおっしゃった。

第一回目に船でお会いしたときは、センター試験が目前に迫っていて、私が数学の模擬試験を一心不乱に解いていたので、私がインテリに見えた、とおっしゃった。

その時は何の交流もしなかったが、不思議とお互いが顔を覚えていた。

 

また、最初に真鑑真号の雑魚寝室に泊まった時は、たまたま上海海事大学の学生が大勢乗り込んでいて、部屋が乗客でギュウギュウ詰めだった。

乗船して部屋に入ると、すでに隣との間に隙間なく布団が敷かれていた。

狭い部屋で、他の乗客が何を話しているのかよく聞こえた。

布団が隣り合わせだったある2人は、すぐに打ち解けたようで、そのうちの一人が面白い話をしているのがこちらにも聞こえ、楽しかった。

 

真鑑真号で次にまた雑魚寝室を予約したら、今度は部屋には私を含めて3人しか乗っておらず寂しかった。

そのうちの1人のSさんとお話をさせて頂いた。

Sさんは、美容師で、愛猫と一緒に暮らしておられた。

下船したらすぐに自転車を買って観光すると言われた。

彼は、所持金が少なく、困った時のために電話番号を教えておいたが、泊まったユースホステルにきっと親切な日本人がいたのだろう、彼からの連絡はなかった。

 

コロナ感染勃発後、真鑑真号も蘇州号も現在までずっと運休している。

彼らは今頃どうしているのだろうか懐かしい。

 

ロッテオリオンズ村田兆治投手を偲ぶ

生の村田兆治を見るために、1989年大学1年生の時、川崎市にある川崎球場へ足を運んだ。

これが人生初のプロ野球公式戦の観戦であった。

ゲーム当日の朝、新聞でその日のロッテの予告先発が村田であることを確認すると、茨城の大学宿舎からバスと電車を乗り継いて川崎球場を目指した。

 

試合前に球場に到着し、1塁側の内野席に座って待っていた。

しばらくして小さな歓声が起こったので、ひょっとして村田が出てきたのかなと、1塁ベンチ側を注目すると背番号29が出てきたのが見えた。

心が震えた。

 

「エキサイティングリーグ、パ!」という場内アナウンスが終わるや否や村田が投げ始め試合が始まった。

残念だったのは、川崎球場は内野観客席からピッチャーマウンドまで長い距離があり、ピッチャーの姿がとても小さくしか見えず、あのダイナミックなフォームを確認することができなかったことだ。

 

その2年後に人生2回目のプロ野球観戦を神戸グリーンスタジアムで行った。

先発ピッチャーの山沖のピッチングフォームが手に取るようにわかった。

まるで草野球を観戦しているような近さだった。

同じプロ野球観戦も、球場によって随分違う。

 

村田兆治は、野茂英雄と並んで私が最も好きなプロ野球選手。

どちらも大変個性的な投げ方をするピッチャーだ。

あのようなフォームは、なかなか思いつくものではない。

ほぼ単一民族で構成されていて、出る杭は打たれる日本では、個性的な選手は、実績をあげればたたかれなくなるが、それまでは数多くの非難にさらされる。

 

ロッテ球団は、バレンタインが監督になるまでは非常に弱かった。

村田は、そのような弱小チームで通算215勝をあげた。

他のチームでプレーしていたら何勝できただろう。

 

私は、中学高校の6年間かなりストイックな生活を送っていたので、村田のストイックさにもひかれ共感を覚えた。

 

そんな村田兆治に影響を受けた人は、きっと多かったに違いない。

私の心の中で村田兆治は、永遠にヒーローであり続ける。